プノンペン市(Phnom Penh)    シハヌークビル(Sihanoukville)  シェム リアップ(Siem Reap)

 

 

 

 

はうとぅ独占インタビュー

〜指導者たちが語るカンボジアという国〜

Samdach Heng Samrin (サムダッチ ヘン・サムリン)

 

カンボジアを大きく変えた、悲しいポル・ポト時代、そしてそれを駆逐した立役者であるサムダッチ・ヘン・サムリン。歴史を大きく変えた人物でもあります。一体カンボジアはどんなふうになって欲しいのか、どのようになるのか。政治家として、ひとりの人間として、どのようにカンボジアを見てきたのか。歴史を振り返りながら、カンボジアの歩んだ道程や核心に迫るお話、また、少年時代どのようにして育ったのかなどご自身のお話も、お伺いすることができました。

 

 今日までカンボジアを指導してきたひとりとして、今と較べて過去がどんなであったか、教えてください。

 ポル・ポト政権(時代)を崩壊させてから今日まで、26年が経ち、27年めになろうとしています。カンボジアはもう一度息を吹き返し、発展がはじまって、そして現在も前進しています。これは、誇りに思って良いといえるでしょう。

 

 1979年当時のことを話すと、ポル・ポト支配から解放された直後のカンボジアには、もはや国家としての組織もシステムもなにもなく、都市部の町はほとんどゴーストタウンと化していました。ポル・ポトが台頭していた3年8ヶ月20日の間、国家制度に通貨の存在はありませんでした。 近年、そのような貨幣を使用しないなどという国は、世界中どこを見てもないでしょう。元来、社会主義思想に基づいて行われる国家の建設とは、「すべての国民が国の発展に向かって平等に働く」という狙いが大前提となります。主義として採られた平等という手段が、結果的に皆が平等に利益をもたらすことになるわけです。国民が一丸となれば、そんな素晴らしい社会に築き上げられるのだという理念が、社会主義国家の根本にあるものです。統制の取れた国家組織が先頭に立ち、国と国民のためになる政治を行う、 それが本来の「平等」そして「社会主義」を意味するものでしょう。ところが、彼(か)のポル・ポトの支配政治の中でも「平等」という理論がありました。


 ポル・ポトは政権を握った当初には、平等的な建国をすると謳っていたのです。結局、実際行ったことといえば、都市部に住んでいた民衆を、強制的に立ち退かせ、遠く過疎地の移住先では厳しい肉体労働に従事させることでした。それから医療のスタッフから病院の活動そのものを辞めさせ、寺院、学校、市場を閉め、そして貨幣の使用を廃止しました。つまりは存在していた制度を一掃してしまったのです。

 ポル・ポトの酷い時代が背景にあり、それから後に指導者として、軍を率いて旗揚げするサムダッチですが、そもそもはどういった経緯で、政治に関わっていったのですか?

 私はゲリラ活動に参加してきました。理由は、カンボジアの国では、帝国主義国家による植民地支配がつづいていたからだと言えます。一つの帝国主義が去ると、また別の帝国主義が現れる。フランスから解き放たれたと思ったら、また間もなくしてアメリカという帝国主義国に侵された。だから、カンボジア国民は皆立ち上がって、ゲリラ活動という形で、民主主義独立国家を取り戻すために奮闘していたのです。1975年4月17日は、今では悪夢の始まりの日として印されますが、当日は私自身も含めた全国民が、米国の傀儡であるロン・ノル政権から独立を勝ち得た喜びと、独立自由国家を建設するとの将来への期待がありました。はじめてクメール・ルージュ軍がプノンペンに
やってきたとき、民衆はカンボジアを解放した軍の凱旋だと思い、祝いを込めて笑顔と歓声で迎えたのです。
 

 しかし、それは、正反対でした。解放ではなく、やって来たのは新たな恐怖政治でした。権力を奪い取り国の指導者として首相に着いたポル・ポトは、革命組織「クメール・ルージュ」を率いて国民を次々と虐殺していったのです。彼の政策は、不平や異を唱える者、ゲリラ活動をする者、裕福な暮らしをする者、教育を受けた者、それらはすべて敵とみなすというものでした。過去に活躍した政治家や名のある者、教授、医師などの知識人はどんどん殺されてゆきました。


 ポル・ポト独裁支配はつづき、希望のない先行きと恐怖に怯えて暮らす日々が国民を覆っていたと聞きます。そこへサムダッチは、カンボジア救国民族統一戦線を率いて、1978年末に攻勢を仕掛けて、翌79年の1月7日、国に平和を取り戻すべくポル・ポトを追い出すことに成功しました。その功労者として、当時の心境はいかがなもので
したか?

 現在までずーっと、平和のために挑みつづけ、国の復興、発展に尽力を注いできました。もし、私がずっとチャレンジャーだったというならば、我々は今もまだ、チャレンジャーの状況です。
 

 1979年にポル・ポト恐怖政治から国政を解放しましたが、もちろんそれで終わりというわけではありません。それからも、国内での勢力争い、内戦、国際情勢の変化、……その後もたくさん苦労がありました。いろいろな苦境にも耐えながら、国の和平協定を結ぶところまで、そして国を復興する段階にまで、してきました。選挙のために、平和のために、我々は一生懸命、がんばった。


 「パリ和平協定」が締結された1991年、ようやくカンボジアは武装解除と内戦の終結に至りました。その翌年に、国連による暫定統治機構UNTACが成立し、1993年、国連が管理する許で、選挙が実施されました。国政を建て直す第一歩が、選挙の実施です。武力紛争の停止、 平和解決への合意を経てこそ実現できる、大きな目標なのです。


 クメール・ルージュはこの平和合意に参加せずに、選挙もボイコットし、変わらず支配の及ぶ地域で自治政策を行っていました。選挙後も彼らはまだゲリラ活動をつづけていて、平和解決に至らないままでした。そのためにカン
ボジアでは、不安定地域が残ったのです。

 連立、二人首相制という新たな国家体制で、およそ23年ぶりに国内統一政権が誕生したわけですが、その後数年間は政治情勢に揺れ動きも見られていました。それはやはり、ポル・ポト残党の影響なのでしょうか。いつ頃からその名残りが解決されたと言えますか?

次に実施された選挙によって、流れは変わっていきました。新憲法によって定められた、5年後の1998年のことです。その年の選挙は、カンボジア国民によって準備され、国民自身によって投票が執り行われました。結果は、人民党 (Cambodian People Party) の勝利でした。それは人民党がより強い政策を発揮する機会を生み、そしてカンボジア国家に、先ずの成功をもたらすことができたといってよいでしょう。

 

 新政権が決まると同時に我々は、フン・セン首相 (現職・2005年) のもとで、国を良い方向に治めてゆこうと一生懸命に努力しました。


 戦争の傷跡を復興に向けた中での大きな課題であった、クメール・ルージュの残党やゲリラ軍、自治区を消滅させるに至りました。政治家たちは歩み寄り、対立は緩和し、議論で解決する体制に向かい始めました。政党同士、統合をして、国を発展させることに力を注ぎました。


 2003年には第3回めの選挙を迎え、人民党は引きつづき勝利を得ることができました。内閣発足に際して、我々は野党に連立を呼びかけたのですが、それまで連立してきた第一野党は、他の野党と組んで新しい政策を掲げ、民主同盟として与党との連立を拒否しました。我々は、11ヶ月間をかけて解決方法を探しつづけ、結果フンシンペック党と人民党の二政党が合意することで落ち着きました。国政の安否の声が内外から気遣われる中、2004年6月30日に連立合意にサインをしました。 合意が決まった後の細目事項は迅速に進められ、まもなく首相や国会議長の選挙が施行されて、現在の政府が確立したのです。それからは平和的な政界を保ち、連立政党同士は争うことや互いの侮辱、批判をなくし、次期選挙、転じて国家の復興・発展のために、力を尽くすことを誓い合いました。


 2005年もまもなく終わりに近づきます。今後の段階で、大きくつづけて3つのの選挙が控えています。2006年に上院議員選挙、翌2007年には村長選挙、そうして第4回下院議員選挙が2008年に行われる予定です。 国政とし
て、もう争い合うことはありません。我々は協力し合って、世界の国々やアセアン諸国と同じように、国家の発展、平和に努めてゆかなければなりません。


 カンボジア国家の復興・発展に関しては、日本政府からの援助が大きく、おかげ様で効果は目に見えてわかります。日本政府の協力によってできたのは建築物だけではなく、解決、向上した分野は様々です。これからも世界の数々の国や地域同盟国からの援助が期待され、それに応えるべく、カンボジアの国家が発展してゆくことを願うのです。

 カンボジアが平和だと思えるようになったのは、大体いつごろからですか?

 大きい流れで捉えて見ると、 振り返って1979年の解放後から、少しずつ平和に向かい始めました。我々は国家の平和と発展のために精力的に働いていました。国際的な協力もあり、紛争は終結を迎えました。それから国連平和維持団が活動し始め、それに伴ってさまざまなビジネスが国内に入り込みました。しかし入ってきたのは経済だけでなかった。国連がカンボジアに持ち込んだものは、残念ながら平和だけではなく、エイズ(AIDS/HIV)も一緒に運んできたのでした。それまでカンボジアでは、誰もエイズの存在すら知らず、何の知識もありませんでした。我々がかつて見たこともない強大な敵であり、現在まで脅威を振るっています。


 真の平和が訪れたのは、1999年以降でしょう。そして、現在に至り、観光地として世界中から人々がやって来て、カンボジアという国を楽しんでいただけるまでになりました。ただ残念ながら、泥棒や盗難事故の畏れは避けることができません。それに対して我々は、観光客を守るための治安当局を設けています。

 月日だけで考えると、カンボジアはとても速いスピードで進歩しているのだと思います。しかし中を覗いて見れば、それは一歩一歩の前進であり、並大抵の努力ではなかったのだろうとご察しします。おかげで私たちは今、国内どこへでも安全に旅ができるようになりました。この今のカンボジアになって、サムダッチの心は安らぎを得ておられるのでしょうか。ご自身がふと「平和だなあ」と感じることはありますか?


 国が平和になったから、人々の心の中は……。私の場合は、特に個人的に何かがしたいとは思っていない。大事なことは国力の発展のために考えることです。私自身、カンボジア人民党内での指導者という役割があるし、人間の生活にはどのような分野にでも、 指導者という立場はあります。人民党での指導配分を言えば、経済、政策、軍と、複数に及びます。我々は他党を指導するまでもないし、政府の中のポストを要求するわけでもなく、党に
任命されたら、それに従って本分をまっとうするのです。


 現在私は、国会第一副議長に任命されています。ですから、それに従って日々自分の役割を務めるのです。選挙の結果に沿った形だと、本来は与党が首相、国会議長のポストを受け持つのが通常ですが、連立のための協議の下、臨機応変に策が練られました。結果として、譲り合い、協力するという方向で、我々人民党は首相、国会第一副議長を、連立相手の第一野党が国会議長の椅子をとることになったのです。政治とは、役職を巡って争うことに終始するのでなく、国民や国家のためを考えれば身を引くべきときもあります。いつの日か、国民が人民党を不信とすれば、それは国民の判断であり、国を治める権力を与えられるかどうかは、国民次第です。

 社会民主時代、シアヌーク殿下時代と現代は、進展の違いはどのように生じましたか? 現代の方が発展したのでしょうか?

 そうですね、社会民主時代は16年間の平和がつづいていました。当時、カンボジアにも国家の発展はありました。それでも、その時代の状況、国の状態に沿った進み方ですから、発展といえども大分違うものです。現在の、この “第2度めの王国”の方が、すべての面で発達しています。社会民主時には、実際に穏やかな平和がありましたが、地方にいる貧しい国民は、現在と較べるとさらに大変でした。

 

 言わば、地方の民家の生活には、サムダッチは若い頃、寺で勉強したのですか?

 はい、私は寺で勉強しました。その頃、小学校のことを、「知識の養成 (に通う)」と言いました。1960年代、知識の養成は、 普段に学習を行う寺でも開校し、教師の大半は僧侶でした。
 

 学ぶにしろ、情報を手に入れるにしても、その当時はテレビはもとより、ラジオなどは一般にはありませんでした。だから、今がどういう状況なのだとか、国がどういう状態であるかなどということは、わかりませんでした。1960年代になってから、ラジオが普及し始めました。といっても、ラジオ本体は70個の電池を使用した大きなもので、寺にしかありませんでした。ですから、皆で寺まで聞きに行きました。
 

 しかし昔に較べて、現在は非常に発展し、状況、状態に応じて向上しています。
 

 現在なら地方に住んでいても、プノンペンのことを知る手段も可能性もあります。昔のカンボジアの地方では、人々はプノンペンのことを知りませんでした。たとえ知っている人がいても数は少なく、自分の州の所在地さえ知らない人も当たり前にたくさんいました。どこへ行くにしても、歩くか、牛車で行くしか方法がなかったわけです。ということは、遠くのプノンペンまで辿り着くことは、普通はあり得ませんでした。現在は一家庭ごとに自転車を持っています。農民だって、子どもが通学するための自転車を持っています。ほとんどの家庭ではオートバイも所有し、どんな地方へ行ってもテレビがあります。どんな家庭にでも、少なくとも白黒テレビはあり、ニュースや現状況を知るのに、いつでもテレビを点けて確認ができるようになりました。昔は、本当に何もわからなかったのです。たとえ殺人事件が起こったとしても、どのような裁判が行われるのかすらわからなかった。ただし、そこまで閉鎖されていたのは一部の地方に限られますが、それでも都市部へ行ったところで、ある一定の範囲を超えた情報量は、存在しな
かったのです。
 

 近年の情報、伝達の速さを見てください。何かあったらそのニュースは、ただちに世界中に放送されます。インターネットもあり、何もかもあります。昔は貴重だったラジオでさえ、各家庭に一台どころか、一人一人が情報を知るためにポケットに入れて持ち歩いている。どこへ仕事に出かけても、好きなときに聞くことができる。
 

 昔と現在を較べれば雲泥の差です。これは大袈裟に言い過ぎているわけではありません。我々の前の時代に責任を負わせるわけでもありません。その時代はその時代なりに発展したのですから。
 

 今から50年程前にあたる当時、人口は500万人で、一般国民の生活もそこそこでした。現在、カンボジアの全人口は1300万人。1400万人へと近づき、この人口増加により、農地は不足しています。カンボジアの主たる産業は農業で、国民の80%が農民です。しかし、一家族が所有する農地はたった1〜2ヘクタール程度です。それも子どもが4〜5人いれば、大きくなったときに人数分に分けて与えるわけで、それぞれが小さな農地しか所有できないことになる。このままでゆくと、農村部の生活レベルが低下するといわれています。こういった問題を改善することを、国として考えています。

 全体を通して見て、カンボジアはサムダッチの希望通りに進んでいるのでしょうか?

 ポル・ポト時代を経て、カンボジアでは何もかもが破壊されました。ですから私は、1979年の解放後には、国の内外からの大変なこと、山積みされた政治と経済問題を受け止めなければなりませんでした。解放したというだけで済むものではないということです。当時は、何も残っていなかったので、国民の生活基盤をもう一度築くために、 裸一貫で国を再建しました。その頃から現在までを振り返ってみると、我々は大きな進歩を遂げました。自分でも誇りに思っています。国の再建や発展を旗印として掲げて、 我々はがんばってきたからです。
 

 本当に、大変なこともありましたが、これはカンボジア人民党の偉大な功績です。今後も、たとえどんなことがあっても、たとえどんなに小さな問題であっても、冷静に考え、解決に向けた処置を取ることが大切です。年月が経ち、歳老いたとしても、我々は人民党を表舞台に立たせつづけ、この平和を維持してゆきます。それが、カンボジア
を築いてきた指導者としての責任であると思っています。

 


 最後に、カンボジアへの観光客、読者の方たちにメッセージをお願いします。


 現在カンボジアには自治区は無論、恐い地域はありません。タイ国境、ラオス国境、ベトナム国境、どのようなところでも、治安に関する心配はなく、日本からの観光客が大勢行っています。戦争の心配をする必要はもうありません。日本、そして世界の観光客の皆様、平和な国家であるカンボジアを、どうぞ見つめつづけていてください。
 

 長くつづいた内戦時代でしたが、 勢力争いが次々に巻き起こる、国政としては短期間での変化の繰り返しでした。たくさんの時代、ハードルにぶつかりながら、越えてはまた新たな障害に阻まれ、数々の難題と対峙して……。並大抵のものではなく、ありきたりの言い方しかできませんが、そうやって、ひとつひとつ、乗り越えて、国をより良い方向へと導いて、だからこそ今のカンボジアがあるというわけです。選挙というものの大きさ、投票の重み、選挙という存在の必要価値が、お話を聞いてぐっと近づいてきました。カンボジアの選挙は、だから投票率が高いわけですね。国民のみなさんは、 投票することに対しての結果が自身の生活に響くという、 直接的な関わりを肌身で知っているから、常に真剣であり、必然のように関心を持つ――これぞ民主主義の本分なわけですが。上に立つ人間に対して皆々が関心を持ち、国政の風向きに注目しつづける、真の意味での「国民の参加」というものを、日本人の私たちは考えさせられます。

それぞれの質問に、真摯に答えてくださったサムダッチです。ありがとうございました。

サムダッチ ヘン サムリン:
1934年5月25日生まれ。
クーデターによって樹立されたロン・ノル政権(1970−1975年)を打倒したカンプチア民族統一戦線の一派クメール・ルージュ(ポル・ポト派)に属し、ポル・ポト政権の東部軍管区師団長(1976−1978年)となる。
ポル・ポト政権に離反し、粛清を免れベトナムへ逃亡の後、1978年カンプチア民族救国統一戦前を旗揚げし、ベトナムの支援の下、1979年1月ポル・ポト政権を崩壊させ、カンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権)を樹立。
1991年10月にパリ和平協定が締結され、国連暫定行政機構(UNTAC)が設置されるまでの国家元首。
現在、下院副議長。

 

*2007年7月現在は下院議長