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はうとぅ独占インタビュー
国際協力機構 JICA カンボジア所長に聞く、
日本の援助活動とこれからのカンボジア

普段はどういったお仕事を行っていらっしゃるのですか? 所長の主な職務を教えてください。
JICAは広範に渡る様々なプロジェクトや事業を行っています。技術協力がJICAのメインの仕事です。専門家・青年海外協力隊・シニア
ボランティアの派遣、無償資金協力やNGOとの連携プログラムなどを行っており、それぞれの仕事に対する基本的な方針や、問題解決、書類の承認や決裁が僕の主な仕事となります。事務所の外では、カンボジア政府の省庁に対して進言したり、相談、打ち合わせを行います。セレモニーや会合に出席する機会も多くあります。ここでは援助機関であるJICAも、外交団の一種として見られていますので、各国大使館が行うパーティー、レセプション、ディナーなどにも招(よ)ばれます。JICAの代表として出て挨拶をしたり、スピーチをしたり。また、カンボジアを支援しているいろいろな国、世界銀行やアジア銀行、国連関係などと、援助機関仲間としての横のつながりもあります。日本側の仕事としては大使館との連携をはじめ、円借款を行っているJBIC、それから調査団が日本からたくさん来ますのでそちらの対応も行います。大学や地方自治体、NGOのスタディツアーも多く、一昨年ではJICAでぜひ話を聞かせて欲しいと、100件以上の団体が来ました。忙しいのですができるだけ対応したいと思っています。学生さんたちが来たときは、講義のような形をとり、カンボジアを理解してもらう、そして日本の援助の理解をしてもらうために努めています。
ここカンボジアでは、日本の援助機関であるJICAのことは地元の人々で知らない人はいないと言ってもよいほどJICA
は多岐の分野で活躍していますが、力石所長のこれまでの4年間の中で、印象深かったお仕事、プロジェクトは何ですか?
プロジェクトはいろいろやってきて、印象深いものはたくさんありますが……そうですね、一昨年に日本・カンボジア国交50周年の年に執り行った、様々な記念行事を思い出します。その中のひとつにコンポンチャム州で、カンボジアの家族と日本の家族がきずな橋の両側から歩み寄り、真ん中で出会うという式典がありました。きずな橋というのは、日本の援助で築いたメコン川に架かる長さ1.3Kmの橋です。カンボジアと日本が絆を確かめ合うという行事で、両国の代表として、おじいちゃんの代、お父さんの代、子どもの代、孫の代といった構成をして、橋の真ん中で出会って花束を交換し、友好を誓うという。そういうときに居合わせることができたことは、とても幸運だと思っています。
プロジェクトでの苦労と言えば、プノンペンからネアックルンまでの国道一号線のことが浮かびます。56kmの距離を無償資金協力で全面的に直すのですが、既に着工し始めています。国道一号線というのはメコン川に沿った形でずっと走っているので、雨季になると水浸しになってしまうのです。しかも国道一号線というのは、将来ベトナムのホーチミンとカンボジアのプノンペン、タイのバンコクとをつなぐ大動脈になっていく重要な道です。修復が非常に困難な部分を日本が援助するということになったのです。まず堤防を造って、洪水が来ても大丈夫なようにしてから、その上に道路を造る、二重の仕事です。今はコンディションも悪く通りにくいのですが、これができると素晴らしい道路になります。
きずな橋:2001年に完成したこの橋によってカンボジアは
初めて東西が一つにつながった。日本・カンボジア国交50
周年の行事の一つがこの橋上で行われた。
カンボジア側としてもその道路を、何とかしたかった? 何とかしなくてはならなかったのでしょうか?
もう何とかしたくてしょうがなかったんだけれども、先立つものもなければ技術もなかったので。2008年中には完成させる予定ですが、それができると、今度はメコン川を渡らなくてはならないのですね。そこで第二メコン架橋をぜひ日本の無償資金協力で架けようと、今がんばっています。メコンを渡す橋となれば、相当な技術力が必要となってくるわけです。カンボジアが単独で造るということはまだ難しいですから、日本側の技術支援も入れて。歴史の中でも、これはずっと残ります。その橋を架けると、いよいよプノンペンとホーチミン間がおそらく3時間半かからないで行ける様になる。カンボジアだけでなく、インドシナ全体の動脈として将来的に経済活動に非常に大きな影響を及ぼします。
そうですか! それは、カンボジアの観光にとってもものすごく大きく変わる出来事となるのでは?
もちろんそうです。観光にも経済にも。こういう援助の仕事には、ロマンもありますね。自分は最後まで見届けることはできないけれど、何を……どういったきっかけを作っていくことができるか。苦労も大きいのですが、やりがいでもあります。
インフラ(infrastructure:
国家・社会などの経済的存続に必要な基本的施設。道路、学校、交通、通信機関などのことを指す)以外にも様々なプロジェクトを抱えています。たとえば医療の母子保健センターという病院がありまして、日本の無償資金協力で建て、その後JICAで技術支援を行いました。日本の医療、医師をはじめとするチームが入って、カンボジア側のスタッフを育てて来たわけです。過去10年で、みんな立派に育っていき、自分たちで運営できるようになりました。結核対策プロジェクトを始めてから7年ほど経ちましたけれど、かなり効果があがってきています。カンボジアは世界でも指折りの結核汚染国です。その状況を改善しなくてはいけない。最近ようやく、実数が下がってきました。感染症対策に関しては子どもたちへのワクチン投与を毎年やっているのですが、先日ポリオ(ウィルス性小児麻痺)の患者が、プノンペン市内で3人見つかるということがありました。放っておくと広範に伝染する可能性があるということで、直ちに関係地域の子どもたち全員にポリオワクチンを投与して、広がらないようにしようと動きました。これはWHOとUNICEFと連携し、JICAの予算で調達して行い、無事に終わったところです。
プノンペン市プンプレック浄水場。
日本の無償資金協力で整備された浄水場で、
日本人専門家による技術指導が行われている。
JICAでは、そういった素早い対応ができるということですね?
素早い対応をしなければいけないと思います。通常の技術協力のプロジェクトでは準備段階で時間がかりますが、クイック・レスポンスが必要なものは、待っていてはいけない、やるかやらないかのどちらかですから。
あとはいわゆる「グッド・ガバナン ス」分野の協力にも力を入れていま す。例えば……法整備ですね。カンボジアには法律がなかったわけです。民法と民事訴訟法という国の非常に基本的な法律ですけれど、この制定に日本が携わって足掛け6年になります。先日、民事訴訟法が国会、議会で通りました。次は民法です。これが定められますと、カンボジアの国民一人ひとりの生き方がそれによって変わる、確定することになるわけです。ある種の規範がそこに確立される。たとえば日本だと、民法の中で、親族や債権などの日頃の国民のやり取り、法律行為が規定されます。民法がないというのは、国としてなかなか大変なことでありまして。昔……内戦前はもちろんありましたけれど、すべての法律がポル・ポトによって破壊されてしまいました。この仕事は非常に困難ではあるけれども、着実に進んできています。
それはカンボジアの将来に大きく関わるということですよね?
ええ、確実に。国としての基本ですから。フランスは刑法、刑事訴訟法をやっていまして。UNTACが入ってきたときは、国連の暫定法律で運営してきたのですけれど、やはり自分の国の刑法がないというのは普通おかしいわけです。よって、フランスがそれに着手したのですが、日本の民法の方が先に進んでいるんです。それは非常に喜ばしいことです。
ほかにも、高校の理数科教育のプロジェクトや、研修の受け入れなども行っています。留学生無償で毎年25名の人たち、主に政府で働いている若い人たちを日本の大学に入れて2年間で修士を取って卒業させます。資金は外務省から出ているのですが、オペレーションの方はすべてJICAと日本国際協力センター
( JICE )
でやっています。もうすでにかなりの人数が帰ってきて、中でも何名かはJICAの事務所で働いてもらっています。今の若い人たちは非常に優秀です。ああいう人たちが育っていくのを見ると、カンボジアの将来は明るいと思いますね。
内務省国家警察に鑑識技術を指導するシニア ボランティア
(鹿間邦壽SV)
初めてカンボジアにいらしたときこと、その印象をお話しいただけますか?
初めて来たのは、1968年です。当時、父は日本大使を務めておりまして、僕は高校一年生のときに夏休みを利用して、1カ月ほどの期間で遊びに来ました。ずいぶん昔のことですからぼやけているところもあると思いますが、比較的印象に残っているのは、静かで、緑が多くて、花が咲き乱れていて……きれいな街だなあ、と思いました。車もあまり多くなく、通りを走っているのはシクロ、あとは歩いている人々ばかりでした。ごみごみした感じがまったくありませんでした。フランスの植民地時代の影響で、コロニアル風の建物がずうっと並ぶ、洒落た街並みで。国民は非常に正直で、悪いことをひとつもしない。たとえばホテルのベッドの上にお金をばら撒いて忘れて出かけちゃった。で、帰ってきたら金種ごとにきちっと揃えて置いてあるという……。当時のカンボジアの人たちは敬虔な仏教徒でした。皆、毎週お寺に行き、立派なお坊さんがたくさんいて、そういうお坊さんのお説教を聴いて小さい頃から育っている。僕は、こんな善い人たちもいるんだなあと思いました。道路も整っていて、水道もあり、インフラはきちんと整備されていました。シハヌークビルやウドン、シェムリアップまでも陸路で行きました。道路もちゃんとしていましたよ。アンコール・ワットは、今のようにざわざわとたくさんの観光客はいなくて、本当に静かに佇んでいたという感じを、最初の感激を今でも強烈に憶えています。ホテルも現在のように、にょきにょきと豪華なホテルが軒並み建っているというのではなくて、小型のガーデン付きのホテルがちょこっちょこっとあるだけで。まだ高校一年生でしたけれども、非常にいい国だなあと思ったことを憶えています。
そのカンボジアをご覧になった力石所長が再来し、こうしてお仕事をしているということは、とても大きな意味があるのではないでしょうか。
その33年後にあたる2001年に、JICAの出張でカンボジアに来ました。滞在は24時間もないたったの1泊でしたが、大変な国になったという印象を持ちました。昔の風景とはずいぶん変わってしまったなと、と思いました。市内を移動する際、車窓にほとんど未舗装の道に土埃があちこちで舞っているのを見て、非常にショックを受けました。こんなになっちゃったんだ、って思いました。やはり内戦を20数年つづけて、何も整備していないまま放ったらかしにしておくと、こんな風になってしまうのだと。町が荒廃していただけでなく、人々の顔も険しいように感じました。60年代の当時は、もっと愛想もよく、表情が穏やかだった気がします。人間が違ってきたな……という印象を受けました。その翌年、カンボジアに赴任の辞令を受けましたが、僕はまさかこちらに来ることになるとは思っていなかったので、なにか因縁めいたものを感じました。現在でカンボジア勤務はちょうど丸4年になります。
カンボジアには国会議員や大学関係、学生など多くの日本人
が訪問。昨年は100件以上のスタディーツアーを受け入れた。
せっかく自分が来たのだから、こうしようとか、抱負のようなものを抱きましたか?
それはもう、はい、思いました。少なくとも、僕が高校一年生のときに自分で見た、あのカンボジアのレベルまでには戻したいと思いました。赴任してきた翌日、当時の小川郷太郎大使が大使公邸にてレセプションを開いてくださいまして、唐突だったのですが、決意表明をやってくださいとマイクを渡されて……そのときに今の話を……大臣や外交団たちの前で、実は30数年前に一度だけ来ていて、当時のカンボジアを知っているという話をしたのですが、とても大きな反応をいただいたのです。スピーチの後、感銘を受けました、とカンボジアの年配の閣僚の人たちが話しかけてきてくださいまして。また、自分も60年代の当時のあのカンボジアのレベルに戻したいということを仰言っていました。
カンボジアは、60年代後半はここインドシナ半島では当時、出色の国だったんです。インフラの度合いも教養のレベルも非常に高くて、たとえばシンガポールのリークヮンユー氏やマレーシアのマハティール氏が若いころ勉強しに来ていたというような国でした。昨今のカンボジアしかご存知ない方たちは、地雷と虐殺と、なんだか治安も悪い、といった印象がまだ強いのかもしれないけれど、必ずしもそうではないんですね。カンボジアはこれまで2度ほど繁栄を極めたことがあり、1度めはアンコール王朝時代、そして2度めは独立後、内戦になる70年代の前のシハヌーク国王が失脚するまでの15、6年間、非常に良かったわけです。国際政治的には非常に難しい時期だったのですが、シハヌーク国王がいわゆる「綱渡り外交」を行い、なんとかカンボジアを護ろうとしていた時期です。そのときは基礎インフラがきちんとしていたということもあって、当時のレベルから言っても近隣諸国で抜きん出ていたのではないかと僕は思うんです。だから僕は、立派な国になった経験があるDNAが、クメール人に入っていると信じているんです。たとえ時間はかかったとしても、また一流国になれるよと、僕は言いたいのです。
王立プノンペン大学で日本語を教える青年海外協力隊
(山田亜耶隊員)
援助する側のJICAとして、仕事だからやる、というだけなのではなく、やっぱり「もういちど、こうなんだ!」という強いお気持ちがあるとないとでは全然違いますよね。
それはそうですね。ですからそういう気持ちから、たとえば教育省の幹部に会ったときには、道徳教育をもっとちゃんとするべきだ、と盛んに言っているのです。普通はそんなことは言わないんですけれど……(笑)。カンボジアでは、昔みたいにお寺に通ってお坊さんの説教を聴いて育つ、という習慣が薄れてしまった。それというのも気高いお坊さんたちがみんなポル・ポトでやられてしまったということもあり、伝承者が少ないんです。学校でもちゃんと道徳教育は教えてはいなくて、子どもたちはキャンディ食べた後は、包み紙をぽいってその辺の路傍に捨ててしまうとかね。要するに公共道徳の概念がないと、人のものを平気で盗んだり、お金を払ってずるいことをしたりということが、当たり前になってきてしまう。今思い返してみると、なぜ60年代の頃、カンボアジが素晴らしいと思えたのか、それは人々の行動規範というものが、ある価値観でもってきちんと規律されていたからだと思います。そのカンボジアのいいところが、今かなり失われている、というのが一番悲しい部分ではないでしょうか。
ずっと住んでいるとつい、見慣れてしまうところもあると思いますが、4年前を振り返って、カンボジアはどうでしょうか、どんな風にお思いですか?
変わりましたよ。経済活動がすごく活発になりました。道はきれいになり、街も再開発されていて、古い建物を壊して商店やホテルやレストランなど、どんどん新しいものを建てています。JICAで長い期間かけて行っている活動で、プノンペン水道局のプロジェクトがあります。相当苦労をしたのですが、今はプノンペン市内ほぼ全地域に、安全な水を供給できるようになりました。水道の水も飲める程にきれいになり、大成功といってよいでしょう。電気の分野もです。2001年当時は、夜になると町は暗かった。ですが、発電のプロジェクトの成果で、夜が明るくなりました。特に印象深いのは、川沿いのところで市民が家族が夕方涼みに来ているのを目にしたことです。観光に来たり、お弁当を食べていたり。着任当初は、ああいう光景ってあまりなかったんです。やはり平和になって、人々が心の落ち着きを取り戻してきたということでしょう。それと同時にインフラもどんどん整備されて良くなって、経済が活発化してきて収入も増え、楽しみもできて……映画館もできて、ボーリング場ができて、と、そういう日々の喜びは大切です。内戦中はみんなびくびくしながら、子どもも危なくて家から出せないというような生活を強いられていたわけですから。それが全部解かれて平和になったというのは非常に大きいのだと思います。開発の前にまず平和が定着する必要があるというのが、それはどこの国でも同じですけれども、大前提です。カンボジアがここ数年でこれだけすごく発展したのは、平和だったからというわけです。
カンボジア フン・セン首相と。JICAの代表
として、叙勲を受けた。
カンボジアは本当に発展したと言って良いですか?
はい、確実に。僕が着任した2002年からの4年間で見てみますと、最初の年は経済成長が5%くらいでした。その翌年が7%、次が9.5%、で昨年が13.8%。これはものすごい勢いの成長です。ですから、街の様子もずいぶんと変わってきました。この調子で行けば、カンボジアの発展は間違いなく進みます。そこで鍵となるのが、人材なんです。その人材を今育てなければ、壁にぶち当たってしまう。結局国の発展という抽象的なことを言っても、担うのはみな人間ですから。役所の人も、民間の人も、すべての人たちのレベルが上がっていくことによって、よりよい経済成長が望めるのです。役所にも優秀な人たちがいれば、政治の不正もだんだん少なくなるでしょうし、国家予算もしっかり増えて国民に対するサービスも充実してくるという循環です。ですからやはり、人間を育てないと。
内戦中に少年だった、今40、50歳代の人たちは、悲しい歴史のうねりの中で基礎教育もきちんと受けられなかった気の毒な世代です。この人たちにはいろいろ教えようとしても、なかなか難しいのです。ですから僕たちは先を見越して、今20、30代くらいの若い人たちに投資する。いろいろなプロジェクトで育てていこうと試みています。すぐには効果は出てこないけれど、必ず、後日結果が出るはずです。彼らはあと10年経てば30、40歳になる。国を担って行く世代になっていくわけです。そうすると、国はものすごい勢いで変わります。
そういったひとつの「援助」という大きな意味で考えていくと?
援助とは、目の前のものを何とかするだけではないのです。もちろん、先ほどお話したポリオワクチンのような、今すぐのためのものもあります。しかし大きく言えば、この国の全体の将来を描いて、こういう風に国を導いていくべきと、長い目で見据えるべきなのです。現在行っていることが10年後に花開く、というようなものを考えていかなくてはならないのです。その上で人を育てるのです。たとえば、水道の分野でしっかりとした人を育てていけば、これから水道局の運営も自分たちでできるようになる、そうするといつまでも市民が安全な水を飲めるようになる。そういった仕組みを、すべての分野で確立させることが必要です。裁判官や検察官、弁護士に於いても、法律を整備するだけではなく、人を育てなければ意味がないんですね。全部人が絡んでくるのです。日本が明治以降ここまで発展したのは、人材が豊富だったということに尽きます。人材なくして発展した国というのはひとつもありません。そういう意味で、援助機関であるJICAは人づくり、人材育成がもっともメインの仕事になっているわけです。
カンボジアの、技術を習得する側も、受け入れますか? 日本からそうやって教えてもらって、じゃあ、やろう、と。
ええ、受け入れます。この仕事をやっていて非常に救われるのは、カンボジアの人たちがとてもまじめだということです。時に理解が遅かったりすることはあっても、一生懸命学ぼうという姿勢で頑張りますので、ゆくゆく立派になります。JICAの専門家やシニアボランティアでもみんな言っていますが、最初は「こんなこともわからないの?!」なんて思ったり、「これでは教えられないじゃないか……」とくじけそうにもなるのだそうです。それでも生徒たちは必死についてくるので、「もう、それじゃあ、教えちゃおう!」という気にさせられるらしいです(笑)。教える側だって生身の人間ですから、「またやろう!」なんて励まされるそうです。そういうのってカンボジア人のいいとこ
ろですよね。
2005年度 日本人会・盆踊り大会
日本を代表してカンボジアに貢献する組織の所長として、これからのカンボジアはどう成長していくか、見解を教えてください。
正しい価値観、必要な知識を持った人たちが増えていけば良いですね。またかつてのような、一流の国になるチャンスはいくらでもあると思います。そこで絶対必要なのは、平和が維持されることです。内戦や内紛などが絶対起こらないことが、まず必須要項です。それから、教育にちゃんと力を入れて、今まだ小さな子どもたちからきちんと育てる、規律も道徳の部分も含めてちゃんと教育をするということが条件になります。それ以外の部分は、おそらく成長の基礎はできていますから。あとは人材をどれだけちゃんと作っていくかというところにかかってくるわけです。そこをしっかりとやれば、必ずや、いい国になってくると言えるでしょう。
力石所長、今後のご自身のご展望は。
僕ももうすぐカンボジアを去ることになります。8月には帰国することになると思います。今後どんな仕事が待っているかわかりませんが、カンボジアのことは、個人的にも縁があるので、また何らかの形で関与できればいいなと思っています。
では、ぜひ10年後にもう一度インタビューを、今お約束をください!
はい! いや、でも真面目に、僕は本当に期待していますよ。先ほどから繰り返しているように、カンボジア人には、かつて一流だったそういう血が流れているのですから。ぜひ頑張って欲しいなと思います。

力石寿郎(ちからいしじゅろう)
生年月日: 1952年1月31日
出身地: 東京
略歴:
父親の仕事の関係で、幼い頃パリに在住、小学校時代はニューヨークとジュネーブに在住、中学校から日本。早大卒、1976年JICA採用。研修事業部、外務省出向(4年、内2年はパプアニューギニア日本大使館)、総務部総務課、無償資金協力業務部計画課長代理、外務省経済協力局勤務1年半、社会開発協力部計画課長代理、人事課長代理、企画部地域第3課長、フィリピン事務所次長、無償資金協力部計画課長、企画部企画課長を経て現職。
趣味: 読書、音楽鑑賞、ギター演奏、芸術一般、ゴルフ、釣り、料理
カンボジア猛虎会名誉会長

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