|
サンボー・プレイ・クック遺跡群
「カンボジアの法隆寺」
遺跡紹介:JASA(日本国政府アンコール遺跡救済チーム) 下田 一太 氏

国道6号線をシェムリアップからプノンペンに向かってひた走ること約2時間、広大な湖プレイ・プロスを過ぎると、道が大きく右にカーブする。この緩やかなカーブの直後に鋭角に左折すると、舗装路から一転、そこからは赤土の道路が延びている。土埃をあげて走ること約10km、右手にはSambor
Prei Kukの大きな文字の記された案内板。これを右折してしばらく走ると、国連ボランティアとして赴任し、銃撃により亡くなった中田厚人氏の名前がつけられたアツ村を過ぎる。さらに案内板に従ってしばらく走ると、オー・クル・ケー川の橋の手前にツーリスト・オフィスが見えてくる。辺りは静かな森の中。豊かな森を意味するサンボー・プレイ・クック遺跡群の中に、すでに踏み込んでいることに気付かされる。最寄りの町、コンポン・トムからは約28km、約35分で到着する。
東西12km、南北10km、290近くの煉瓦遺構が広がる古代都市址:
遺跡群は東に寺院が集中し、西にイーシャナプラと呼ばれた都城址が広がっている。寺院地区は、3つの大型伽藍、プラサット・サンボー、プラサット・タオ、プラサット・イエイ・ポアンが集まり、遺跡群の北にはプラサット・ロバン・ロミアスやプラサット・スライ・クルップ・リャッと呼ばれる伽藍がある。さらに周囲の森に足を踏み入れれば、崩壊した寺院の痕が無数に埋もれている(が、踏み入れないで下さい…)。
写真:N18(サンボー・プレイ・クック北 )
プレ・アンコール期 紀元前後〜西暦8世紀:
ジャヤヴァルマン二世が802年にアンコール王朝を建国して以降、600年以上にわたりシェムリアップ周辺にはクメール王朝の首都、アンコール遺跡群が築かれた。しかし、アンコール・ワットが建立されるはるか500年も前に、すでに高度に完成された美術や建築などのクメール独自の芸術文化が成立していたことはあまり知られていない。
紀元前後から8世紀頃の時代はプレ・アンコール期と称されるが、この時代はさらにフナン時代とチェンラ時代に分けられる。フナン時代は沿岸に貿易都市をつくり、海洋を通じた交易によって栄えた時代と言われる。タケオ州にあるアンコール・ボレイ遺跡(4世紀〜5世紀)がこの時代の首都だったようだ。この頃は山の上や平原に単独で宗教建造物が建てられるのが一般的であった。
ところが続くチェンラ時代に入り、インドから伝わった曼陀羅の思想や、メール山(須弥山)の世界観が寺院の建造を通じて実現化されることとなる。複合的な宗教建築が、7世紀のチェンラ時代の首都である、ここサンボー・プレイ・クック遺跡において突如として完成したのである。
イーシャナプラ‐古代都城:
サンボー・プレイ・クックという遺跡の名称は20世紀に入ってから付けられた名前で、この都市は当時イーシャナプラと呼ばれていた。イーシャナプラは「イサン」と「プラ」の2つの言葉からなっている。「プラ」とは都市とか都城の意味で、「イサン」は北東の意味であるから、《北東の都市》という意味があったと考えられている。フナンの時代首都、アンコール・ボレイから見ると、この地区が北東にあるのでこう呼ばれたのかも知れない。この他、インドの方位観において北東はシヴァ神が座する方角であり、この寺院の主神格がシヴァ神であることから、イーシャナプラと命名されたと考えることもできる。
この都市を建造した治世王、イシャナヴァルマン一世は西暦580年から620年ごろに生きた人物で、日本では聖徳太子(574-622)が国を治めていた時代である。聖徳太子は小野妹子を隋に派遣し、様々な文化を吸収して国造りに励んだが、カンボジアもインドと中国から多くの文化をこの時代に取り入れたと考えられている。中国の歴史書には、イシャナヴァルマン一世が使節を6度派遣したことが記されており、もしかしたら日本とカンボジアの使節が中国でばったり出会っていたかも知れない。この王はまさにカンボジアの聖徳太子なる人物だったのだ。中国の史料によれば、この古代都市は「伊奢那城(イーシャナプラ)」と呼ばれ、2万戸の家屋があり、都市の中央には祭事を司る大きな堂が位置していたことが記録されている。一家に8人が住んでいたならば、この都市には16万の人口が推定されることになる。ちなみに8世紀の都、平城京には約10万人の人口がいたと考えられているから、ほぼ同じくらいの規模の都市であったのかも知れない。
1辺2kmで周囲を環濠に囲まれた都城の跡にはいろいろな土木工作も残っており、古道や参道の他、ダムや貯水池、水路など、7世紀頃からこの周辺では灌漑施設が発達していた様子が窺える。
   
@ドゥルガー神像 Aハリハラ神像 Bフライング・パレス Cフライング・パレス

Dリンテル Eマカラ Fリンガの台座
  
写真:プラサット・サンボー

プラサット・サンボー:7世紀初頭 イシャナヴァルマン一世 ヒンズー教寺院
イーシャナヴァルマンが聖徳太子なら、ここサンボー・プレイ・クック遺跡の寺院は、日本における法隆寺ということになるだろうか。以下にカンボジアの法隆寺を紹介したい。一番北に位置するのは三重の周壁に囲まれたプラサート・サンボー寺院。中央祠堂を囲むように4つの副祠堂があり、東門から入って右側(北東)の祠堂に女神ドゥルガーの彫像、左側(南東)の祠堂にはハリハラ神の彫像が収められていた。いずれの彫像も現在はプノンペンにある国立博物館に収蔵されているが、2006年に祠堂の中に複製が安置され、往時の姿が再現された。左側奥(南西)には八角形の祠堂が配されている。法隆寺の八角祠堂「夢殿」思い出されるところであるが、同時代の建築でありながら歴史や文化の違いによって、こうも異なるものができてしまうのは興味深い。日本でも八角造りの祠堂は円堂と呼ばれているが、ここでも円形を意図して企画したものの、構造的に造り易い八角形になったのかもしれない。それを示すように、室内には円形の台座が据えられている。この台座上には馬頭像であるヴァジムカ神が安置されていたが、現在はパリのギメ美術館に展示されている。
中央祠堂では、発掘調査により台座をなす石板が発見された。現在、室内に並べられているこの台座の中央には直径1.3mの穴が開いており、このサイズのシヴァ神の象徴、リンガがここに差し込まれて御神体とされていたものと考えられる。9世紀の遺跡、プノン・ボック寺院に見られるリンガもまた直径1.3mの太さを誇るが、その高さは4mにも及ぶ巨大なものである。この室内にも同じくらい大きなリンガが安置されていたのかもしれない。
この建物は2002年に周囲の堆積土を除去したが、以前は壁体の半ばを飾るフライング・パレスの高さまで土が覆い被さっていた。このクリアランス調査により、元あった装飾の上にレンガを積み上げて基壇を拡張した改築痕が確認された。付柱もまた後から拡張されたようで、それに合わせて扉の上方に位置する破風飾りが改変されていることが明らかとなった。破風飾りは祠堂の中でも最大の見所で、建物の性格を表す彫刻が施されるところである。この寺院からは、複数の碑文が発見されているが、それらの年代は7世紀と10世紀の異なる二つの時代を示している。また出土している彫像も、同様にこの両時代の様式のものに二分される。このことから、7世紀にこの寺院が建立されてから300年後、アンコール王朝の王であったラージェンドラヴァルマン二世が寺院の改宗を図ったものと考えられている。
フライング・パレス:サンボー・プレイ・クック遺跡の幾つかの煉瓦造寺院は、フライング・パレス「空中宮殿」の彫刻によって壁面が飾られている。宮殿の下では、羽のついた人や馬などが宮殿を支えており、さながら「天空の城サンボー」とでも呼びたくなる代物である。宮殿の中央には印を結んだ人物が上半身を覗かせている。一部には漆喰
の痕が残っており、彩色痕も見られることから当初は建物の外壁には漆喰が塗られ、極彩色で飾られていたのかも知れない。
ドゥルガー神像:シヴァ神の配偶神のひとり。インドでは凶暴な女神とされ、内臓を口に銜えて水牛を踏みつけて血まみれになった恐ろしい姿をしているが、カンボジアでは温和な女神として崇められている。グロテスクで性的表現に向かいがちなインドの芸術と、カンボジアの芸術との違いを良く表している。
ハリハラ神像:ヴィシュヌ神とシヴァ神が合体した神様。入念に観察してみると、左右で彫刻が異なっているのが見てとれる。左半身にヴィシュヌ神が、右半身にはシヴァ神が表現されている。それに加えて、額にはシヴァ神の特徴である縦長の第三の目が、これも半分だけ付けられている。ヒンドゥー教の最高神である両者が折り重なって強力な神力を備えていることが視覚的に表現された。
リンテル:扉の上に飾られた装飾部材のことをいう。アンコールの建築はこのリンテルの彫刻様式で時代を編年することが可能である。この遺跡では「サンボー・プレイ・クック様式」と呼ばれるものが大半で、この時代の様式を代表している。左右にマカラという水中に棲む怪物がおり、その上にはカウボーイさながら怪物を御した人が乗っている。マカラは口からライオンを吐き出し、そのまま植物紋のアーチに連続している。中央にはヒンドゥー神や仏像が座している。
マカラ:普段は深い海底や河底にいて、小魚や真珠貝を食べているが、ときに陸に上がり、鹿や獅子などの動物を食すると想像された怪物である。その姿は、胴体はワニで、尾は海豚や鯨、表皮には鱗があり、雄牛や獅子や熊、あるいは鹿や象などの頭をもち、カモシカの足が付いている。日本にもこの怪物は伝来しているが、何者であろうか?実は、寺院や天守閣の大屋根の棟にとりいれられたシャチホコで、火災から建物を守る役目を担っている。

写真:プラサット・タオ
プラサット・タオ:9世紀 ヒンズー教寺院
二重の周壁に囲まれ、北東には溜池が水を湛えている。チェンラ時代後期は長く混乱した時代が続き、この混乱を治めたジャヤヴァルマン二世がアンコール王朝を樹立するが、この寺院は同王によりこの地を平定した際に、建立されたものと考えられている。煉瓦造の寺院が崩れた痕がたくさん見られる他、ラテライトの円柱が散乱していることから、列柱殿の様な建物もあったようである。この寺院でひときわ有名なのが中央祠堂の獅子像である。カンボジア人にとって、この獅子像はサンボー遺跡のメインキャラクターとなっている。アンコール遺跡にも多数の獅子像が寺院の至る所に見られるが、そうした獅子達の祖先ともいうべき存在である。正面から見るとなんともコミカルな表情をしているのが印象的。クーレン山中にある9世紀の獅子像と似ていることから、この寺院が同時代の建立であることの証左とされている。中央祠堂の飾り扉とリンテルは、保存状態が大変良く、一見してコンクリートで作られたようにも見えるが、これらは砂岩製のオリジナル。植物模様のリンテルは、8世紀から9世紀にかけてよく見られる様式となっている。
プラサット・タオ プラサット・イエイ・ポアン




Gリンテル
H獅子像 Iメダリオン Jフライング・パレス
写真下:プラサット・イエイ・ポアン周壁の外から

写真下:プラサット・イエイ・ポアン周壁内

プラサット・イエイ・ポアン:7世紀 イシャナヴァルマン一世 ヒンズー教寺院
二重の周壁に囲まれた寺院。円形装飾メダイヨンが第2周壁西側の内外の壁体を飾っている。円形の枠の中に描かれた図像は未だに謎だが、アンコール・ワットやバイヨンなどの周壁に長大な浮き彫り物語を描く建物の起源である。
中央祠堂の周りには5つの八角形祠堂が配される。南西祠堂のフライングパレスに彫刻された人物は、口髭を蓄え、どこかクメール人とは異なってアーリア系の顔立ちを思わせる。インドを経由してさらに西方の文化が何らかの形で影響を与えていたことが想像される。
中央祠堂の東西のリンテルは、様式に当てはまらない自由な作風を見せている。西側のものは現在プノンペンの国立博物館に展示されており、楽団が音楽を奏でながら行進している場面が彫られている。遺跡に残された東側のリンテルは残念ながら近年、人物像の顔が欠き取られてしまった。
中央祠堂の室内に安置されている台座は、最近復元されたものである。この台座はかつて寺院の直下に埋蔵されていた宝物が盗掘した際に破壊されてしまった。破壊された台座の部材は、盗掘坑に埋められていたが、幸いにも発掘調査によりほぼ全ての台座片が収集され、その原型が復元された。
この寺院からはいくつかの碑文が出土しており、ある碑文には「微笑むシヴァ神」と呼ばれる彫像がこの台座の上に安置されていたことが刻まれている。残念なことにこの彫像は発見されていないが、この記述からシヴァ神を祀る寺院であることが判明した。また、碑文の中には627年にこの寺院が落慶をむかえたことが記されており、イシャナヴァルマン一世の治世期の寺院であることの根拠とされている。
中央祠堂の東側にある建物は、昨年8月の記録的な大雨によって倒壊してしまった。この建物の中にはマンダパとよばれる装飾台座が安置されていた。約3m角の台座の四隅に支柱が立ち、そこに天蓋を乗せる珍しい型式をなしていた。クドゥーと呼ばれる装飾や、植物紋様の浮き彫りは秀逸な作品で、この遺跡を代表する傑作であった。また、それらの装飾はヘレニズムの影響を色濃く残すもので、クメール文化の起源を探る上で極めて貴重な作品であった。現在、この台座と煉瓦造祠堂の保存修復工事の準備を進めている。
写真提供:JASA (日本国政府アンコール遺跡救済チーム)
倒壊前の中央祠堂東側の建物内部のマンダパ
アーリア系の顔立ちをした彫刻



倒壊後のマンダパ
K倒壊した中央祠堂東側の建物

碑文:第1周壁西側の門扉には「リンガパルバータ」に関する碑文が刻まれている。リンガパルバータとはチェンラ時代の聖山であり、中国史料にもこの聖山について記録が残されている。「都の近くにはリンガパルバータと呼ばれる山があり、山上の祠は5000人の兵士に守られていた。」というのである。これまで、この山はラオス南部にある世界遺産、ワット・プーの背後に聳える標高約1400mのカオ山だと考えられることが一般的だった。事実、ワット・プー遺跡の近くからはイーシャナプラよりも古い都市の痕跡が見つかっている。イーシャナプラの寺院の中心に、ラオスの聖山の名前が刻まれていたことから、チェンラ王朝はワット・プーの周辺を起源として勢力を伸長したものと理解されてきた。
しかしながら、近年の研究では、リンガパルバータはプレ・アンコール時代の聖山一般を示す代名詞であり、必ずしもある特定の山を示しているわけではないことが指摘されている。チェンラ時代には約30の地方都市が群雄割拠の拠点となっていたが、各都市にはそれぞれリンガパルバータなる聖山があったのではないかというのである。
では、ここイーシャナプラの聖山はどこにあったのだろうか?コンポン・トムの南方のプノン・サントックであったとか、もっと南方のワット・プレア・ティエットであったという説もある。しかし、最近の調査により、この古代都市の東を流れるセン河の対岸に位置するプノン・バリエンの山頂から山腹にかけて、連続して同時代の祠堂が立ち並んでいることが確認され、ここがイーシャナプラの聖山であった可能性が高まっている。この山は標高たった80mにすぎないものの、南北が切り立っており、古代都市の位置する西方からは、一面の平原の中に三角に峰が立ち上がっており、聖山なる姿に相応しい。
碑文/Lプラサット・イエイ・ポアン 碑文/MN18
 カンボジアでは、古くより山岳信仰や巨石信仰といったアニミズム、つまり「もののけ」の信仰が盛んであったが、精霊信仰による混沌とした神々の恩恵は,体系化され,確かな技術と組織体系をもったヒンドゥー教や仏教といった伝来の宗教と重ね合わされることで,より明瞭な神々の庇護へと昇華されたのである。
チェンラ王朝は、いまだに深い謎につつまれている。フナン時代の首都であるアンコール・ボレイとチェンラ時代の首都であるサンボー・プレイ・クックとでは、都市構造が全く違っているため、異なる文化背景をもっていたものと考えられてきた。また中国の歴史書ではチェンラは戦闘によってフナンを併合したことが記されているなど、王朝の推移は断絶したものであったと想像されてきた。しかしながら、中国とインドを結ぶ航路において、カンボジアやベトナムの沿岸部が航海技術の発達により貿易港から外れたために、自然と沿岸部の勢力は弱まりフナンの勢力が、より内陸に移行してチェンラとして再起したのではないか、と最近では考えられるようになってきた。
内陸に位置するチェンラ王朝は、貿易国家から農業国家としての性格を強めてゆく。農業国家としてより多くの人口を抱えることができるようになると、農閑期には大きな余剰力が発生し、巨大な寺院や都市の建設事業が可能となった。事実、サンボー・プレイ・クック遺跡の周囲には無数の天水の貯水池が点在している他、河川を堰き止めた貯水池、また水路の痕跡が確認されており、「水の都アンコール」の基礎となる灌漑施設が、ここで発達していった様子がうかがえる。このようにして、大型の複合寺院がこの遺跡群に出現するに至ったのである。
サンボー・プレイ・クック遺跡はこうして、アンコール遺跡の前身となる内陸農業国家として形成されたが、当時の国際都市の一つでもあったようである。遺跡群の近くを流れるストゥン・セン河は水量が多く、上流に遡ればプレア・ヴィヘアなどの大型の遺跡群にたどり着き、また下流はトンレサップ湖へと流れ込む。トンレサップ湖は東南アジアの大河メコンと結びついており、海洋交易のルートから、ここサンボー・プレイ・クック遺跡までたどり着くことができるのである。
寺院はストゥン・セン河の氾濫原を避けて高台の縁に建てられているが、この氾濫源を突っ切る2km以上の参道が寺院まで延びている。参道と河とは水路で結ばれており、河岸には門前町が広がっていた様子が思い描かれる。今日ではコンポン・チューティアルという村が河岸に位置するが、今でも中華系の住民が多く、商売上手な人が多い。おそらく、河川を遡行してきた外国の使節や商人は、門前町で長旅の疲れを癒してから、寺院へと向かったのであろう。参道に歩を進めた人々は、長大な参道とその先に構えた寺院を目にして、チェンラ王朝の威容に圧倒されていたかも知れない。
JASA(日本国政府アンコール遺跡救済チーム)
早稲田大学建築史研究室は、1994年から日本国政府の修復チームの中核となり、アンコール遺跡の修復事業に参加。現在JASAはアプサラ機構と協力して、バイヨン寺院の保存修復工事を進めている。研究室の調査グループは、アンコール建築がその源流であるインド建築からどのように発展したのか解明することを目的に、サンボー・プレイ・クック遺跡の研究に98年に着手。当初は年に1回、2〜3週間という小規模な調査であった。当時はカンボジアの情勢がまだ不安定で、地方遺跡の情報は皆無であったため、遺跡群の現状を把握し、報告することが主要な課題であった。2001年から文化芸術省と共同で、文化財保護・芸術研究助成財団と住友財団からの助成を受け「サンボー・プレイ・クック遺跡保全事業」を開始、《調査・保全・開発》と徐々にその活動を広げている。
調査開始後、新たに200以上の遺構が周囲からは発見されたが、この地域では村人の増加に伴い開墾が進み、田畑の中に位置する遺跡の破壊が進む状況にあった。保全事業は遺跡保護のためにプロテクションゾーニング(保護区)の設置をカンボジア政府に申請し、2003年に施行された。しかし、現状では十分な効力が得られておらず、より実行力のあるものにしていくことが課題のひとつとなっている。
寺院の草刈りや枝払い、危険樹木の伐採といったメンテナンス活動を継続して進めているが、最近では寺院や古代都市において発掘調査を行う他、図面集や遺構目録などの基礎資料の作成、伽藍のクリアランス調査や彫像の再設置、散乱している遺物の保管などの活動を行っている。また、煉瓦造祠堂や石製台座の修復工事、遺跡群の文化観光開発にむけての準備を進めている。
村の中に点在する遺跡を保存するためには、村人の遺跡に対する理解が不可欠であることから、村人と協力して遺跡を保存し、また観光サービスを提供するために、村人が中心となった「サンボー・プレイ・クック遺跡保存開発協会」を2004年に設立。2006年には遺跡と地域の伝統工芸を紹介するための「イーシャナボレイ・クラフト小屋」
を設置した。遺跡を通じた歴史的なモノと、今に息づき継承されていく現代的な価値をもつヒトやモノとの両者を保存し、観光客がそれらに触れ、交流できる場を創ることを目指している。
カンボジアはアンコール遺跡の他にも魅力的な史跡や自然が豊富にある国。アンコールに一極集中する観光客が、国内のもっと多くの遺跡へと足を運ぶようになることで、様々なメリットがカンボジアと観光客の双方にある。サンボー・プレイ・クック遺跡群を、そうした地方訪問の拠点の一つにしていきたいと考えている。
早稲田大学の学生たちによるイーシャナプラ発掘調査
下田 一太 氏
  

|